Theological Dissertations

古代ギリシア教父におけるキリスト教と哲学 ―アタナシオスの神化論をめぐって

更新日:2022.08.04

はじめに

1「古代ギリシア教父におけるキリスト教と哲学」を概括的に論じることは簡単ではない。ユスティノスから始まって、アレキサンドリア学派、ニカイアの教父、カッパドキア教父など、個別的な教父の吟味検討が不可欠なだけでなく、各著作、各該当箇所の分析と解釈という膨大な作業を要するからである2。そこで、本発表では、この主題を概括的に論じるのではなくて、アタナシオスの神化論という一点に絞って考察してみようと思う。その際、プラトン哲学とその傍流であるプロティノスの神化論を顧慮することによって、アタナシオスの神化論の思想的な独自性を考察してみたい。

4世紀には、キリスト論の領域とともに、それと密接に関連しながら、救済論とくに神化論の神学的な思索が展開された。ギリシア教父の救済論には、神性への参与によって人間が救済に至るというプラトン哲学が内包する神化論が見られるし、実際近年の教父研究では、プラトン哲学とギリシア教父の神化論との思想的な類縁性も指摘されてきた3。それらの成果を踏まえた上で、アタナシオスの神化論が、プラトン哲学とその傍流の神化論とどのような点において思想的に相違しているかを考察することで、「古代におけるキリスト教と哲学」というシンポジウムの主題への発題という責めを果たしたく思う。

限られた時間ゆえに、アタナシオスの初期の主著であり、神化思想が最初に出てくる『言の受肉』De Incarnationeの考察を中心とする。今後のより整った研究のためには、『アレイオス派駁論』『聖霊論』など他の著作の分析から、アタナシオスの神化論の独自性を、アレイオス派の論駁という大きな神学的なコンテキストから解明すること、聖霊論との結びつき及び三位一体論的な展開との関連などにも注意を払うべきことは当然である。

 

1 プラトン哲学とその傍流の神化論

プラトン哲学には、神化(theosis) 論のルーツと言うべき思想が存在する4。プラトンは、『国家』の中で、「正しい人」は、現在どれほどの苦難を負っていても、最後には善い報いを受けると述べて次のように結論づける。「すすんで正しい人になろうと熱心に心がける人、徳を行なうことによって、人間に可能なかぎり神に似ようと心がける人が、いやしくも神からなおざりにされるようなことはけっしてないのだから」5

ここには、徳の実践が、「神に似ようとすること」、言い換えれば「神化」を求める人間の不可欠の前提となるという思想が見られる。この徳を市民的な徳と理解するか、あるいは観想的・浄化的徳ととらえるかは6、プラトンの神化論をどう理解するかという後の問題とも関連する。プラトン自身の中には両様の徳の理解があり7、加えて、可知的世界(叡智界)(コスモス ノエートス)と可感的世界(コスモス アイステートス)を区別する二元的な思考がプラトンとその傍流の神化論の特質を規定している。『ティマイオス』の結びの部分には、次のような一節がある。

「そして、さあ、万有に関する、われわれの話も、いまはもう、終わりに達したものとしようではありませんか。何故なら、死すべきもの、不死なるもの、どちらの生きものをも取り入れて、この宇宙はこうして満たされ、目に見える、もろもろの生きものを包括する、目に見える生きものとして、理性の対象の似像たる、感覚される神として、最大なるもの、最善なるもの、最美なるもの、最完全なるものとして、それは誕生したからです。そして、これこそ、ただ一つあるだけの、類なき、この宇宙にほかならないのです」8

宇宙の可知的領域(叡智界)と可感的領域の区別は、神化論が救済の問題に接続すると、大きな展開を見せる。救済は、罪や悪からの救いと解放を意味するゆえに、神化としての救済は、可感的領域での悪や罪からの解放という理解を生むとともに、加えて、そもそも可感的領域に救済は存在するのか、あるいは存在しないとすれば、可感的領域から可知的領域への魂に向きの変更こそが必要なのではないかという問題提起が生じる。プラトンとその後のプラトン哲学の神化論の展開を考えるとき、このような点に着目することができる。

たとえば、中期プラトン主義者エウドロスは、プラトンの『テアイテトス』の該当箇所を注釈して、「神に似ることが、人生の目的(テロス)であると主張した」9。『テアイテトス』の該当箇所(176b)では、プラトンがソクラテスをして、「〔われわれの道徳的本性の領域にある悪ゆえに、〕・・この世界からかの世界へ逃げて行くようにしなければならならんということにもなるのです。そしてその『世を逃れる』というのは、できるだけ神に似るということなのです」と言わしめている10。ここには、1世紀の中期プラトン主義者たちが、徳の実践をもはや市民的な徳の実践とは理解せず、可知的世界への魂の向け変えによる浄化的な徳の実践と理解していたことが示されている。3世紀の新プラトン主義者プロティノスにあっては、「神に似ること」は、倫理的な実践の課題ではなくて、可知的領域(叡智界)への帰還、一者への回帰、神との合一という、より高い次元における救済を意味するようになる。Russell の言葉を借りれば、「善を得ることが、善の元型がそこに見出される神的な世界へと上昇することを必然化する」11のである。

もちろん、プロティノス哲学の形而上学的な用語と思想には、始源への回帰と上昇は、人間存在の内的な帰還と表裏の関係にあることが示されている。そこには、地上の生をどう生きるかと言う課題も含まれていることは当然である。『エネアデス』Ⅰ・8では12、「悪とは何か、そしてどこから生じるのか」が論じられている。個別的な諸悪より先に悪の実体があり、悪とは、一者と対立する二元構造の一翼を担うような存在ではなく、あくまでも姿(スケース)、形(エイドス)、恰好(モルペー)などの基があって、少しも善を持たない存在であることが説明されている。つまり、悪の実体は、真実在に比べれば、「影にすぎないもの」だと言われる13。ゆえに、わたしたち人間の課題は、諸悪と戦うのではなくて、「諸悪から逃れること」であるとプラトンの『パイドン』の言葉(107d1)を引いて主張する。もちろん、この場合、プロティノスが言わんとするところは、地上から出ていくことではなくて、地上にありながら、「思慮ある人となって、人に対しては正、神の前では敬虔なる者」としてあることだとも言う(『テアイテトス』1762-3 )。つまり、プロティノスは、プラトンに拠りながら、悪からの逃避とは、悪徳と悪徳から派生したものからの逃避であると考えていたことがわかる。

すると、悪から逃れるためには、プラトンが『テアイテトス』(176b1-2)で語ったように、ほんとうの自分を肉体から引き離し、神々の間に居場所を持つことが必要なのである。換言すれば、叡智界の知性(ヌース)との関係を保っている真の魂(プシュケー)としての自分が、感覚世界を超えて、叡智界に居場所を持つことに他ならない。

叡智界に上昇した魂は、同時に、人間自身の内側にある原理へと下降しなければならない(Ⅵ・3・3・20-1)。この時点で、プロティノスは、人は神となったと言う。同時にプロティノスにとって、この事態は、一者と一つになった出来事である(Ⅵ・9・9・58)。

同じプラトン哲学の人間論を受け継いだユダヤ人哲学者にフィロンがいる14。彼は、天空の彼方にある神の玉座は、理性的秩序である叡智界に取って代わられたと考える。フィロンは、悪は善なるものと対立しつつ存在するものゆえに、悪を失くしてしまうことも滅ぼすことも不可能と考える。悪は、人間という死すべき本性を持つ者の周辺に出没し、地上を跋扈する必然性を有している。そこで、フィロンによれば、人間は、悪の必然性をはじめから持っているゆえに、悪に抗ったり抵抗することは不毛なのである。フィロンにとっては、悪の存在するこの世界からの逃亡が神化であり、悪を前にして、倫理的な独創力などというものは見出しえないと考えた。ただし、可感的世界において、禁欲的な共同体の生は、「徳の競技者」として、哲学から生み出されたものと理解され、当時のエッセネ派の禁欲共同体にその具体的姿を読み取った15。フィロンは、『逃亡の発見』の中では、次のように明言している。「私たちが逃げることは、できるだけの力を振り絞って、自分を神に似せることである。似ることは、知慮をもって、正しく敬虔になることである」16

このように、プラトン哲学とそこから生じた諸思想は、神化を悪徳からの逃避と理解している。逃避は、人間を含む世界の背後にある可知的領域と可感的領域の前提からすれば、不可避的な人間の行動と言えるのである。不可避的な行動は、人間の魂が一者へと上昇し、すべての二元性が最終的には消失し、合一へと至る(『エネアデス』Ⅵ・9・9)。この事態は、同時に、「我々は、我々自身の内側にある原理へと下降する」ことでもある(同上Ⅳ・3・3・20-1)

このようなプラトン哲学の神化理解に対して、そもそも可知的領域と可感的領域を徹底して否定するところに生起したアタナシオス神学は、枠組みと用語こそ継承しながらも、その本質が異なる神化論を構想することになる。

 

2 アタナシオスの神化論

アタナシオスは、自身の著作の中で「神とする」(テオポイエオー)という言葉を異教のコンテキストでは20回、キリスト教のコンテキストでは30回使用している。最初に使用された例が、『言の受肉』54章3である17

3~4世紀は、ローマ皇帝が神々として祀られる時代であった。傑出した皇帝や英雄が神々として祀り上げられ、「神化」されることもあった。アタナシオスの著作には、「神化」という言葉を異教のコンテキストで使った用例が複数存在したのも、このような異教の慣習と実践が存在したからである。

『言の受肉』54章は、明らかにキリスト教のコンテキストで独自の意味で「神化」という言葉を用いている。アレキサンドリアのクレメンスまでは、詩編82編6節の「わたしは言った。『あなたたちは神々なのか・・』」という言葉の「神々」とは誰を意味するかをめぐって議論が交わされていた。2世紀半ばのユスティノスは、キリストに従う人々と解釈し、2世紀後半から3世紀前半を生きたリヨンのエイレナイオスは、「子ら」と結びつけて、「神々」とは、洗礼を受けたクリスチャンであると解釈した18。そこから、彼は受肉と人間の救済について以下のように述べている。「この故にこそ、みことばが人となった。神の子が人となった。[それは人が]みことばと[混ぜ合わされ]、子とする[恵み]を受けて神の子となるためであった。私たちは、不滅性と不死性とひとつにされるのでなければ、それ以外の方法で不滅性や不死性に参与することはできなかったからである」19

エイレナイオスは、人間の救いとは、堕罪によって失われた人間の似像の回復、すなわち原初の人間に与えられた不滅性と不死性の回復であると考えていたことがわかる20。エイレナイオスの思想を引き継いで、アレキサンドリアのクレメンスも、人間が神の似像の回復によって、存在にからみつく死や滅びという本性から解き放たれて、御子によって完全な子とされることが救済であると考えた。

オリゲネスもまた、クレメンスと同様の救済理解を共有するが、神化は、クレメンスが考えたような倫理的な純化によるキリスト教的なグノーシスへの参与というよりも、御子と聖霊の働きによって、理性(ヌース)を有している被造物である人間が神に参与することによって可能になると考えた。アタナシオスは、オリゲネスのモチーフをさらに展開するとともに、救済論とキリスト論、そして三位一体論を結び合わせて、神化についての考察を深めていった。

『言の受肉』は、『異教徒駁論』とともにアタナシオスの初期の著作の姉妹編をなす。司教への任職にあたり、アタナシオスの自身の受肉理解、キリスト理解、神理解を表明する目的があったと思われる。

アタナシオスは、エイレナイオスと同じように、堕落した人間が神の似像を失って、原初状態の不死や不滅を保っていた状態から、死と滅びにさらされる無の状態に逆戻りしたと理解している。そこで、御子の受肉は、人間が死と滅びに瀕している状態から原初状態へと回復されるために、神が備えてくださった道であり、私たち人間を神とするための出来事であった。この場合、「神とする」とは、人間が、その存在や本質において神になることではなくて、神の御子の本質に参与する(メテコー)ことによって、御子の不死性や不滅性をいただくことである。

ここで注目すべき点は、アタナシオスの神化論が、悪魔と悪との戦いのモチーフと深く結びついていることである。これは、『言の受肉』全体を通読すればわかることでもあるが、とりわけ『言の受肉』25(邦訳99~100頁)に展開された、「天への上昇路」の開放としての救済理解から了解できる。アタナシオスは、次のように主イエス・キリストの受肉の目的を述べている。

「われわれのために天への上昇路を開くために、主は来られたのである。これは死を通して成し遂げられねばならなかった。では、空中で遂げられた〔死〕、つまり私の言わんとするのは十字架の〔死〕のほかの死によって、これが成し遂げられたであろうか。実に、十字架の上で最期を遂げる者だけが空中で死ぬのである。このため、まさに主はこのような〔死〕を耐え忍ばれたのである。また、〔地上から〕上げられたとき、〔主は〕悪魔と悪霊どものあらゆる陰謀から大気を清められたのである。それを『私は、サタンが稲妻のように〔天から〕落ちるのを見ている』(ルカ10:18)と言っておられるのである。道を付けて、天への上昇路を開かれたことに関しても言われている、・・・」21

アタナシオスにとっての神化は、キリストの十字架と復活を仲保とするが、同時にそこには、キリストの悪魔との戦いが展開される。悪と悪魔からの逃避ではなくて、それらとの熾烈な戦いが不可避的に生じる。戦いは、救済の条件ではなくて、神化の過程で、避けられない事態なのである。キリストの十字架によって、死は滅ぼされ、力を発揮することはなくなる。「真に死は死んだことの無視しがたいしるしと明らかな証拠は、キリストのすべての弟子たちのあいだでは死が意に介されておらず、皆が〔死〕を踏み越えており、もはや〔死〕を恐れてはおらず、むしろ十字架のしるしとキリストへの信仰によって、〔死〕を死んだものとして踏みにじっていることなのである」22

つまり、キリストに与ることによって、神化された人間は、もはや死を恐れることなく、悪と悪魔と戦い続ける。悪はそこから逃避する存在ではなく、勝利する相手であり、勝利は、「天への上昇路」に通じる。アタナシオスは、『言の受肉』27~31において、神の子であるキリストの十字架と復活が、いかにして悪と死への勝利をもたらし、信仰者を、それらから解放することになるかを詳述する。このような視点から見るならば、「神化」という語句を使用してはいないものの、ロゴスにかたくより頼むことによって、悪魔の力と誘惑に勝利する『アントニオスの生涯』Vita Antoniiに描かれたアントニオスの姿は、神化された人間の具体像ともいえる。哲学的な思索と教えは、悪魔を退け、勝利することに貢献できない。ロゴスに固着し、ロゴスの受肉ゆえに、ロゴスを讃美頌栄する者は、神に似る存在となるのである23。『アントニオスの生涯』にも、神に似る者とされて、天に上昇する人間アントニオスの姿が書かれている。

「9時頃のこと、食事をしようとした〔アントニオス〕は、祈るために立ち上がったのだった。すると、心が奪われたように感じた。驚くべきことに、〔アントニオス〕は、立っているのに、自分の肉体の外におり、空中を通って誰かに引かれていくように思われた。空中には不快で邪悪な何者かが大勢おり、彼が通り過ぎるのを邪魔しようとしていた」24

アタナシオスは、『言の受肉』の中で、プラトンについて一度言及するが、哲学の内容を指すものではまったくない25。しかしながら、その他の箇所で、「ギリシア人」や「ギリシアの哲学者」という言葉で、彼らの神化思想が、不十分であり、到底納得させるものではなかったと指摘している26

アタナシオスは、ギリシア哲学の教えによっては、真の意味では悪と悪徳には勝てないと考えていた。しかし、キリストの教えを聞くや否や、彼らは、戦いを農耕に代え、手を剣で武装する代わりに祈るために指し伸ばすと述べる27(52・3,132頁)。つまり、地上での戦いは、悪魔と悪霊との戦いへと転換される。アタナシオスは次にように結論付ける。

「要するに、互いに相争う代わりに、以後、悪魔と悪霊どもに対して武装し、貞節と魂の徳とによって彼らに打ち勝っているのである。これこそまさに救い主の神性のしるしである。それはまた、人々が偶像からはけっして学びえなかったことであり、この方〔キリスト〕の許で学んだことである」28

ここから、アタナシオスは、その主張全体を、礼拝と頌栄のモチーフへと移行させる。

「実に、彼らは以前に礼拝していたものらを捨て、かつては嘲笑していた十字架に架けられたお方をキリストとして礼拝し、その方が神であると告白して讃美しているのである。また、彼らのあいだで神々と言われていた者らは十字架のしるしによって追い払われ、十字架に架けられた救い主が全地の至るところで、神にして神の子として宣べ伝えられているのである。ギリシア人のあいだで礼拝されていた神々は恥ずべきものとして彼らの許から放逐され、キリストの教えを受け入れた人々は彼らより貞淑な生を送っているのである」29

礼拝と頌栄のモチーフの調べと共に、『言の受肉』は結論部分に入り、その中に、最初に述べた神化に言及した有名な箇所が出てくる。

「さて、本性によって見えざる方であり、いかにしても見ることのできない方である神を見たいと思うなら、その人は業によって〔神〕を理解し知らねばならないように、知性(ディアノイア)によってキリストを見ることのできない者は、肉体〔を通してなされた〕業によって〔キリスト〕を会得し、それが人間の業か神の業か吟味するがよい。そして、もしそれが人間の業であるなら〔キリスト〕を嘲笑するがよい。しかし、もし人間の業ではなく神の業であると認められるなら、嘲笑すべきではないことを嘲笑せず、むしろこのような単純素朴な事実を通して神的なことがわれわれに現わされたこと、死を通して不死がすべてのものに及んだこと、言(ロゴス)の受肉を通して万物に対する摂理とその実践者であり形成者である神の言その方が知られたことに讃嘆するがよい。実に、この方〔言〕が人となられたのは、われわれを神とするためである。また、この方(言)が肉体を通してご自分を現されたのは、見えない父の認識(エンノイア)をわれわれが得るためである。また、この方〔言〕が人々の侮辱を耐え忍ばれたのは、われわれが不滅を受け継ぐためである。この方(言)は、苦しみえぬ方(アパテイア)、朽ちざる方、言そのものである神として、いかなる点でも損なわれることのない方であったが、人々のためにこれらの苦悩を耐え忍ばれたのであり、ご自分の受苦不能性(アパテイア)によって人々を守り、救われたのである」30

 

3 まとめと展望

アタナシオスは、第二回追放時に『アレイオス派駁論』Contra Arianos(CA)を書き、そこで「神化」について多く語るようになる。「神化」は、アレイオス論駁の主要な武器として、アレイオス派の救済論とキリスト論の問題点を明らかにするものとなった。

アレイオス派は、イエス・キリストが御子であるのは、御父である神の神性に参与しているからだと考え、御子こそが神化された存在であるという議論をしている(CA 1.9)。御子は、御父なる神の神性に参与する限りにおいて神性を持ち、その神性によって人間を救済する。アレイオス派の運動は、アレキサンドリアの司祭であったアレイオスが、御子は一被造物であり、御子が存在しないことがあったと主張をすることから始まった。やがて公認されたばかりのキリスト教会はアレイオスの主張を支持するアレイオス派とそれに反対するアレキサンドリアの司教座を中心とする後の「正統派」の間で、激しい論争と権力闘争を繰り返した。

アタナシオスは、アレキサンドリアの司教としてこの論争に関与し、徹底してアレイオス派の主張を論駁することになる。創造者である神と無から創造された世界の根本的な差異にもかかわらず、御父と等しい本質を持つ御子は、人間の救済のために人となって地上に生きてくださった。御子の受肉は、御子の神性の放棄や減少によって生じたのではなく、神性をそのままに保ちつつ、仲保者となってくださった出来事であった。つまり、アタナシオスにとって、救済は、仲保者の内的な本質と御父と御子との内的な関係の内に起こる出来事であって、その内的な関係のうちにあり続ける受肉したロゴスに人間は結合されて、神と被造物の属性の交流から恵みを受けるのである。『アレイオス派駁論』の中で、アタナシオスは次のように述べている。「もし、肉体をとったロゴスが本性において神に由来し、神にふさわしいものでなかったなら、人間は神化されなかったであろう」(CA 3.48)。

アタナシオスの議論は、個々の人間の神化から、人類全体の神化へと展開していく。つまり、『言の受肉』54・3の「われわれ」とは、神化は、個別的な人間というカテゴリーを超えて全人類に拡大されていることを意味している。アダムにおける人間の最初の創造は、今やキリストにおいて第二の創造つまり不死や不滅という原初に与えられた人間の本性の回復と再生という内的な創造へと向かい、それが完成へと向かうと認識されるようになる。しかも、この完成は、道徳的な進化(プロコペー)にはよらず、ロゴスがとった肉体と人間存在との一致によって生じる31

さらに受肉の救済的な意義は、アタナシオスの次のような言葉に示されている。「ロゴスは、人類の救いのために宿るために、われわれの間に到来した。そこでロゴスは人類を聖化し、神化するために、肉体となったのである」(CA3.39)。アタナシオスは、さらに受肉と復活を神化と結びつけて論じる。「今や肉体はよみがえり、死に勝利し、神化される」(CA3.48)。

紙幅が尽きたので論じることはできないが、アタナシオスの神化論は、『セラピオンへの手紙』では、聖霊の働きと結びつけられ、三位一体論的に展開されていくことも興味深い(『セラピオンへの手紙』Ⅰ.25)。また神化論は、その後のキリスト教思想の歴史に大きな影響を与えた。カッパドキア教父、証聖者マクシモス、ディオニシオス、グレゴリオス・パラマス、エックハルトやタウラー、クザーヌスなどすぐに名前が浮かぶ人々もある。同時に、宗教改革者カルヴァンの聖餐理解(『キリスト教綱要』Ⅳ・17・1以下)と聖霊論の中にエイレナイオスから始まるギリシア教父の神化思想がはっきりと読み取れる。神化の思想の鉱脈は、プロテスタント神学においては忘れ去られていたと言ってよいが、現代の神学的な課題と礼拝、伝道のビジョンを提供する鍵となるであろう。

T.F.Torranceは、自身の神学が、アタナシオス、カルヴァン、バルトと続く二元論を克服した啓示神学の系譜に属することを繰り返し論じているが、その出発点には、アタナシオスによるロゴス論と神化論の刷新の理解がある32

神化とは、世界を離脱して、忘我状態になることでも、一者への没入と同化、合一という出来事でもなく、人間は人間に留まり続けながら、すなわち悪と罪との戦いを回避せずに、昇天したキリストの神性と一つにされて、不死と不朽を神よりいただいて、それが礼拝とサクラメントにおいて、可視的な共同体、教会の現実になることである。

古代ギリシア教父の「勝利者キリスト」のモチーフが、神化論と結びつく理由もまた、悪との戦いが、人性をとったキリスト御自身の戦いによっているからである。神化する生は、不死と不朽を神性から与えられるが、同時に戦う生をキリストの人性から与えられるのである。

アタナシオス神学にあっては、哲学的な思考の枠組みは、一定程度継承されてはいるものの、神化論の中心は、もはやプラトンとその傍流の神化論とはまったく異なるものとなっている。アタナシオスは、このようにして、哲学と折衝しつつ、核心部分では、プラトンとその傍流の哲学とは異なる神学的思索を構築したのである。

  1. 本論文は、2022年3月17日に開催された日本基督教学会近畿支部会でのシンポジウムでの発題である。シンポジウムは、「古代におけるキリスト教と哲学」をめぐって行われた。関川がギリシア教父について発表し、片柳栄一京都大学名誉教授が、ラテン教父について発表し、ディスカッションを行った。京都大学にて対面での開催予定であったが、新型コロナウイルスの感染拡大のために、急遽オンラインのシンポジウムとなった
  2. ただし、そのような試みは存在する。スティッド『古代キリスト教と哲学』(関川泰寛、田中従子訳、教文館、2015年)、土橋茂樹『教父と哲学-ギリシア教父哲学論集』(知泉書院、2019など。
  3. この分野の先駆は、Gross,Jules, La divinization du chrétien d’après les pères grecs: Contribution historique à la doctrine de la grâce 1938 (英訳:The Divinization of the Christian According to the Greek Fathers, A&C Press, 2002)最近になって、相次いでテオーシスについての研究書が出版されている。Norman Russell, The Doctrine of Deification in the Greek Patristic Tradition, Oxford University Press, 2004, Stephen Filan and Vladimir Kharlamov (ed.), Theosis Deification in Christian Theology, Princeton Theological Monograph Series, 2006, M.J.Christensen, and Jeffery A. Wittung (ed.), Partakers of the Divine Nature, The History and Development of Deification in the Christian Traditions, Baker Academic, 2007, 田島照久・阿部善彦編『テオーシス 東方・西方教会における人間神化思想の伝統』(教友社、2018)。
  4. プラトンにtheosis 論の萌芽を読み取って論じているのは、土橋茂樹「プラトン主義と神化思想の萌芽」田島照久・阿部善彦編『テオーシス 東方・西方教会における人間神化思想の伝統』(教友社、2018)所収である。
  5. プラトン『国家』(613a8-b1)(藤沢令夫訳『プラトン全集』11、岩波書店、1976、738頁)。
  6. この点の指摘は、土橋茂樹、前掲書 43~44頁参照
  7. プラトン『パイドン』(69b-e)(松永雄二訳、『プラトン全集』1、193頁)
  8. プラトン『ティマイオス』(92c5-912)、(種山恭子訳『プラトン全集』12,岩波書店、1975、178頁)
  9. この点の指摘は、Russell, op.cit.,p.39
  10. プラトン『テアイテトス』176b(田中美知太郎訳、『プラトン全集』2、エウドロスについては、スティッド、前掲書、88頁、93頁、137頁を参照。
  11. Russell, Norman, The Doctrine of Deification in the Greek Patristic Tradition, Oxford, 2004,p.40)。
  12. プロティノス「エネアデス」1・8『プロティノス全集』1巻、水地宗明、田之頭安彦訳、中央公論社、312頁以下
  13. 同上、319頁
  14. フィロンについての言及は、スティッド、前掲書、84~85頁の記述が興味深い。
  15. フィロン「自由論」13・88、『観想的生活・自由論』土岐健治訳、教文館、2004年、55頁
  16. Philo,De fuga et invention 62-64
  17. Russell, op.cit., p.167
  18. 使徒教父から弁証家に至るギリシア教父の神化思想については、個別的に精査する必要がある。詳細は、Vladimir Khrlamov, “Emergence of the Deification Theme in the Apostolic Fathers”,”Deification in the Apologists of the Second Century”, Stephen Filan and Vladimir Kharlamov (ed.), op. cit.,pp.51~85 を参照。
  19. エイレナイオス『異端反駁』3・19・1(小林稔訳『キリスト教教父著作集 第三巻Ⅰ、エイレナイオス』教文館)
  20. Jeffrey Finch, “Irenaeus on the Christological Basis of Human Divinization”, Stephen Filan and Vladimir Kharlamov (ed.), op. cit.,pp.86~103
  21. アタナシオス『言の受肉』25・6(邦訳100頁)
  22. 同上、27・1(邦訳101頁)
  23. アタナシオス『アントニオスの生涯』については、拙著『アタナシオス神学の研究』4章1節「禁欲倫理」を参照。
  24. V.A.65.2-33(SC400,p.304)(邦訳、小高毅訳、『中世思想原典集成1 初期ギリシア教父』(平凡社、821頁)
  25. 同上、43・4(邦訳122頁)
  26. 同上、47・5(邦訳125頁)、50・2(邦訳130頁)
  27. 同上、52・3(邦訳132頁)
  28. 同上、52・3~4(邦訳132頁)
  29. 同上、53・2(邦訳133頁)
  30. 同上、54・1~3(邦訳134頁)
  31. この点については、アレイオス派の救済論との差異が際立つ。アレイオス派は、ストア派の賢者の思想に影響されて、御子による救済の可能性を、御子の「道徳的な進化」に見た可能性がある。詳細は、拙著『アタナシオス神学の研究』43節「アレイオス主義の思想的系譜とその本質」を参照。
  32. Torrance, T.F., “Athanasius; A Study in the Foundation of Classical Theology”, Theology in Reconciliation, pp. 215-266, London. 1975

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