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安倍元首相の暗殺とカルト宗教、そしてキリスト教

更新日:2022.07.20

関川泰寛

2022年7月8日に起こった安倍晋三元首相の暗殺のニュースは、日本と世界を駆け巡った。予想していない出来事と言う点では、ケネディー暗殺やニューヨークの貿易センタービルへの旅客機の突入などに匹敵するような驚きを人々に与えた。

もちろん、驚きの次に出てきた問いは、「なぜ安倍さんが殺害されたの」「なぜ、どうして」というものであったろう。暗殺現場や増上寺に長い列を作って献花する人々の姿をみて、これらの問いをいだきつつ、解決の得られぬままに、不可解な「もやもや」を皆が抱き続けている。

 

これまで分かったことを整理してみよう。

  1. 2022年7月8日午前11時31分に、近鉄西大寺駅前で、安倍晋三氏は容疑者Yに手製の銃で射殺されたこと。
  2. 容疑者の母親は、カルト宗教にのめり込み、多額の献金を教団にささげて、経済的に困窮をきわめ、家庭崩壊を招いていたこと。容疑者とともに家族全員が、母親のカルト宗教へのコミットメントによって、幼少期より犠牲となっていたこと。
  3. 容疑者は、カルト宗教への復讐心を募らせ、計画的に教団幹部に物理的な危害を加え、復讐心を晴らすとともに、カルト宗教の問題を社会問題化したいと願っていたこと。
  4. 安倍元首相をターゲットにしたのは、安部氏への復讐心というよりも、カルト団体の友好団体にメッセージを寄せていた安倍元首相を殺害することで、カルト教団とその教祖たちに、より大きな宣伝効果、社会的なインパクトが起こることを期待していたこと。
  5. 安倍元首相の殺害によって、上記の目標はほぼ達成されたこと。
  6. この事件によって、容疑者の成育歴、母親のカルト集団への帰依の状況、カルト集団の実態などが、連日マスコミで取り上げられ、一般の人びとの耳目を引くとともに、民主主義の問題、暴力の問題、カルトの問題、宗教の課題など錯綜する主題が論じられ始めて、混乱と誤解が日本社会に生じていること。
  7. 複数の糸が絡み合い、簡単には解けないような錯綜した事態に至って、議論の整理が必要なこと。特に、クリスチャンもまた、これらの混乱と誤解から免れていないこと。さらに現代における宗教の役割、クリスチャンの在り方を問題にすれば、安倍晋三銃撃事件とそこから派生する諸問題を避けて通れないこと。

 

次のこの事件がもたらした教会と教会人へのインパクトを紹介しよう。

 

  1. ネット上をかけめぐる当該のカルト教団批判の増大は、マスコミ報道が過熱して、カルト教団の実態が明るみにでれば当然予想できることであった。オウム事件の際とその点では同じである。しかし、今回は、カルト集団が、「キリスト教系」であり、使用する宗教言語に重なりがあるために、当該カルト集団への批判が増大すればするほど、クリスチャンは、なんとなく肩身の狭い思いをしている。多くのキリスト教会とクリスチャンの反応は、自分たちは、これらカルトとは違う伝統的な宗教であるというものである。カルト集団は、自分たちとは異なる教えと歴史を持つ異端であって、胡散臭いものであると考えて、とりあえず「もやもや感」に整理をつける人が少なくない。
  2. しかし、キリスト教会内には、一連のマスコミ報道によって、自分が信じているキリスト教とカルト集団との相違はどこにあるかがわからなくなって、孤立し苦悩する人々がでてきていることも事実である。例えば、家族の中で自分だけが教会に属し、献金を捧げ、日曜日の集会を欠かすことのない真面目な教会員の中には、カルト集団も、信者に精一杯の「献金」を勧め、「伝道」を呼びかけ、集団への帰属心を求める集団であることを知ると、伝統的なキリスト教とどこに相違があるかわからなってしまう現実がある。
  3. 安倍元首相のカルト教団との関わりから、安部元首相の保守政治の理念が、このような悲惨な結果をもたらしたのであり、安部元首相の死は、ある意味で「身から出た錆」ではないかというような論調が、一部クリスチャンの間には存在する。安倍嫌いは、マスコミを通じて、日本のプロテスタントの左派心情と結びついている。特に、安部元首相の「不祥事」を取り上げて、元首相の政治的な貢献を、彼の「道徳」と今回のカルト集団との関りと思われるものと合わせて、過小に評価する傾向が広く見られる。
  4. 安倍保守主義の批判は、容疑者の生い立ちの不幸を逆に際立たせ、「殺人は非難されるべきだが・・」という前置によって、容疑者を同情の対象としていく。格差社会の犠牲、宗教団体の理不尽さが殊更強調されて、問題の本質が曇らされていること。「殺すな」というクリスチャンにも適用される律法の規程は、括弧でくくられてしまう。
  5. キリスト教系カルト集団が使う言語は、ほぼキリスト教会の言語と重なる。「精一杯の献金」「十一献金」「贖罪」「メシア」・・。この言語を聞くと、クリスチャンになっていない家族は、カルト集団を見るのと同じ目で、クリスチャンの家族を見始める。家族の中で、自分だけがクリスチャンであることを誇りとしてよりは、ある種の負い目と感じ始める。そして、「もやもや感」に突入する。そもそもクリスチャンであることとカルト集団の一員であることの違いは何だろうかという問いが湧いてくる。

 

今回の事件でキリスト教会が考えるべきこと

 

  1. カルト集団と伝統的なキリスト教の相違を判定する規範を、社会もキリスト教会も持たない。信教の自由を前提とする社会では、どのような宗教的信念の存在も等しく認められ、尊ばれる。しかも、信念を共有する集団が存在する場合には、国は法人格を付与して、財産を守り、宗教活動に用いられる不動産は非課税扱いとなる。宗教法人を持つカルト集団も、「カルト」と世間一般に呼ばれるだけであって、国家の空間の中にあっては、一つの宗教団体である。
  2. 伝統的なキリスト教でも、献金を勧め、勧誘を行い、独自の祭儀を営む点では、カルト集団と変わりはない。さらに自己の信念体系によって、共同体のアイデンティティを形成し、アイデンティティを保持するための規範や規則を持つ。国家は、宗教集団の独自の価値を評定したり、内部で行われる宗教行事、儀礼、布教などの行為の優劣をつけることはできない。唯一国家が介入するのは、当該宗教団体が、国家の法に抵触する活動を行って、不法行為に参与した時である。今回の事案では、容疑者の母の献金行為が自発的になされたのであれば、不法行為として裁くことはきわめて難しいだろう。伝統的なキリスト教もまた、もし一信者が自らの信念で1千万円を教団に献金した場合、親族がその差し止めを求めたとしても、むしろ個人のクリスチャンの自発的行為を押しとどめることの方が問題であると結論されるであろう。つまり、カルト集団内での行為の善悪の判定は、きわめて難しいということである。結局のところ、カルト集団のメンバーの自発的で自主的な決断が事態を変化させる
  3. とするならば、カルト集団の道義的な責任はどこにあるかということになる。さらにカルト集団が、ある種のマインド・コントロールによって、メンバーの行動を操作しているとすれば、それをどう防ぐかという問題となる。多額の献金によって、家族崩壊を招いた今回の事件の容疑者の現実に対して、家族の価値や共同体的な絆と尊さを教えて、容疑者の母を諭して、献金の一部を自分の家庭のために用いるべきことを指導すべき人物や団体が必要であった。このような観点から自身の宗教集団の在り方を見直すことは、カルト集団のみならず、伝統的なキリスト教会の在り方の再吟味となる。宗教集団は、常に文化と対抗するだけではなくて、文化と折衝し、受容し、折り合う必要がある。原理主義を生み出さないことが、現代の自由社会の共通認識となる必要があろう。
  4. 容疑者Yの動機は、未だ明確ではないが、国家にも頼らず、他の宗教団体の力も借りず、さらには友人などの近親者の助けもなしに、単独で、いわば自分の力で、一切を解決しようとしたところに、事件の特色が潜んでいる。これは、宗教団体においてマインド・コントロースされた家族の救出の唯一の方法に見えたに違いない。そして事実、唯一の方法であったのである。すでに述べたように、国家は宗教団体の価値観には介入できない。既成の宗教団体もまた、自己の優位性の保証を持ち合わせていないとともに、自分たちもカルト集団と紙一重のところがあるのである。容疑者は、格差社会が拡大する中で、一方で、マスコミによって富と繁栄を獲得した中流上層の豊かさをみせつけられるとともに、他方の格差の極であるところに、自分自身を見出したことであろう。安倍元首相のカルト集団への積極的関与を容疑者自身も認めてはいないようではあるが、格差社会の中で両極だけを見て生きる青年にとって、安部元首相の暗殺は、正当化された可能性がある。
  5. 7月19日朝日新聞朝刊のインタビュー記事の中で、宮台真司は、「寄る辺なき個人」と呼んでいるが、「寄る辺なき個人」を包み込み、受け入れてきたのは、伝統的なプロテスタント・キリスト教であった。しかし、すでに述べた理由から、伝統的なプロテスタント・キリスト教は、反安倍の経済と政治路線をとり続け、カルト集団と実際上はあまり変わることのない活動をしていることを自覚していないために、つまり、社会で重んじられている倫理、道徳観とは乖離した孤立し閉鎖した宗教規範によって、共同体形成をしてきたために、ますます社会と乖離した「原理主義的な」思考方法に凝り固まるようになっているのである。プロテスタント主流派は、自分たちが原理主義とは夢にも思っていないのだが、実際には、自己の倫理・道徳的な規範を絶対視する、アメリカの原理主義とはまた別な原理主義に陥っている。
  6. 健やかな社会は、多様な宗教的な価値観を持つ人々が共存することである。民主主義のメルクマールもそこにあると思われる。今回の事件は、深いところで、民主主義の根底を揺るがせ、宗教的な自由を喪失させる契機を内包している。わたしたちクリスチャンは、健やかな信仰共同体の形成を、今この時、祈りと力を合わせて行うべきである。「寄る辺なき個人」が教会に招かれ、独善的で閉鎖的な倫理・道徳観から脱却して、社会全般の価値を共有しながら、共同体形成を目指すことが肝要であろう。そのためには、日本のプロテスタント教会の自己改革が求められる。閉鎖的で、改革をこばみ、それ自体が無意識的にカルト化し、政治的な立場を一定方向に誘導し、社会倫理的な価値観を押し付けるだけで、多くの人びとと共有できない現代の教会、そして牧師と信徒が、今すぐにでも変化することが求められるであろう。そうすることで、格差社会(経済的な格差以上に、情報の格差、教育の格差、価値観共有の格差などを含む)の中で、両極分化していく社会の片隅に追いやられていく孤立して、孤独な人々を招き包む、本来の意味での教会(わたしはそれを母なる教会と呼ぶ)を回復できると考えている。同時に、教会は、カルト集団にのみ込まれていく人々の救済の役割を社会の中で担えるはずである。

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